~倉敷の美しい建築を巡る旅~ 建築家・浦辺鎮太郎を知っていますか?
倉敷といえば、白壁の蔵屋敷と近現代建築が溶け込んだ、美しい街並みが魅力。中でも有名な倉敷アイビースクエアや市庁舎といった建築物は、建築家・浦辺鎮太郎(以下鎮太郎)が手がけたものです。今回は、株式会社浦辺設計の代表取締役・西村清是さんに取材。鎮太郎による建築物の特徴や、大原家との関わりも含めた彼の建築家人生について紹介します。倉敷の街に今も活きる建築家のまなざしに思いを馳せると、街を見る目が変わってくるかもしれません。
浦辺鎮太郎の建設事例を紹介
まずは、現存する倉敷市内の建物で鎮太郎が設計を担当したものをピックアップして紹介します!あわせて、その建築物の魅力を知り尽くす西村さんに、おすすめのフォトスポットもお聞きしました。編集部カメラマンが実際に現地で写真を撮ってきたので、あわせてチェックしてくださいね!
倉敷アイビースクエア
1974年に完成した、倉敷紡績の元工場をホテルに改築したレンガ造りの建物です。大きな2つの中庭(スクエア)とレンガ壁を這うアイビー(蔦)が特徴。建築学会賞作品賞を受賞しています。
フォトスポット
アーケードのアーチ開口越しにスクエアを見るアングル
倉敷市庁舎
倉敷・児島・玉島の3市が1980年に合併した際に建てられました。街のシンボルとなる、塔と市民ホールを設けた特徴的な外観の建物です。塔には展望台があり倉敷の町を一望することができます。
遠くから見ても目を引く、特徴的な塔
倉敷国際ホテル
1963年に「倉敷初の本格的な国際ホテルが造りたい」という大原總一郎(以下總一郎)の想いに応えて建てたホテル。壁を庇(ひさし)のように重ねる「壁庇」という手法により、美観地区の景観を損ねない佇まいが特徴です。建築学会賞作品賞を受賞しています。
フォトスポット
大原美術館の工芸館の中庭から、工芸館の蔵群の背景となる倉敷国際ホテルを見るアングル
倉敷公民館
1969年に完成。總一郎の構想をかなえた、音楽ホール・音楽図書館を持つ公民館。向かいに立つ中国銀行倉敷支店(現・大原美術館新児島館)は薬師寺主計が手掛けたもので、ネオルネッサンス様式による陰影のある外観が特徴。それに合わせ、入口を通常より後退させて陰影を生み出しています。
フォトスポット
鶴形山トンネル側から、中国銀行倉敷支店(現・大原美術館新児島館)の正面と倉敷公民館を左手前に入れるアングル
大原美術館分館
1961年、伝統的な町並みの保存地区の境界として、保存地区を守る城壁のように建てられた美術館。町屋のデザインとは異なるものの、軒や庇が作る陰影、漆喰の白、コンクリートに埋め込まれた高梁川の川石などの色調が、通りを挟んだ町屋との「新・旧調和」を実現しています。向かいには日本庭園の「新渓園」があり、そこからの眺めも趣があります。
分館南の路地と西側から見るアングル
倉敷の街をデザインした浦辺鎮太郎とは
続いて、鎮太郎の生い立ちや彼が手掛けた建物の特徴について、浦辺設計の西村さんにお聞きしました。
──浦辺鎮太郎が建築家を目指したきっかけは何ですか。
西村さん:
浦辺鎮太郎は1909年に岡山県児島郡粒江村(現・倉敷市粒江)に生まれました。京都帝国大学(現・京都大学)建築科に進学し、在学中にオランダの建築家、ウィレム・デュドックを知ります。デュドックは、オランダのヒルヴェルスムという街の建築技師として多くの建築を手掛けており、世界的にも有名でした。
鎮太郎は「自分もデュドックのような、倉敷の建築家になりたい」という思いを抱き、建築技師の職を志しますが、その当時の倉敷市では建築技師を求めていませんでした。
──デュドックが鎮太郎の原点だったのですね。その後はどのような流れで建築家になったのでしょうか。
1934年に大学を卒業した鎮太郎は、同年に倉敷絹織株式会社(現・株式会社クラレ)に入社します。入社後、建築技師の基礎を、大原美術館本館などを手掛けた建築家・薬師寺主計に学びました。それから、同社の営繕技師として働き始め、工場建築の専門家としても頭角を現していきました。
──倉敷を代表する実業家であり、倉敷絹織の社長も務めた大原總一郎との関係を教えてください。
西村:總一郎は20代の頃、ヨーロッパ各地に視察へ出向いています。その際、ドイツのローテンブルクという街に魅了され、帰国後、浦辺にその素晴らしさとともに「倉敷もローテンブルクに劣らない」という考えを語ったそうです。
倉敷絹織の工場建築などの仕事を中心に多忙を極めていた鎮太郎も、彼の想いを聞いて、学生時代に抱いたデュドックへの感銘を思い出します。こうして、2人は志を一つに、倉敷の街づくりに取り組んでいくことになります。
この若き2人の構想や想いをまとめた、「1953年ノート」という手記があります。この手記の内容に沿った建物を、数十年にわたって倉敷の街に造っていくことで、鎮太郎は建築家として大成していくわけです。
例えば、大原は音楽にも造詣が深く「ヨーロッパの楽団が演奏できる公会堂を造りたい」という想いがあったのですが、これは彼が亡くなった後に市民会館として実現します。また「イギリスにあるような、パブを併設したイン(宿泊施設)」という構想から生まれたのが、倉敷国際ホテルです。
──ローテンブルクの街を目指した倉敷の街づくりは、どのように進んだのでしょうか?
西村:1968年に總一郎は亡くなりますが、以降も鎮太郎は「1953年ノート」で若き日の志を思い出しつつ、多くの建築物を手掛けていきます。そんな中、執務室の壁には倉敷中心部の地図を貼って「大原構想」と称し、そこに成果物や今後の建築予定を書き加えていきました。
地図の中で、倉敷駅前や旧市庁舎の周辺、市民会館、中央病院を結んだ1km四方のエリアを見ると、まさに四方櫓に囲まれた街。鎮太郎は「これは總一郎氏から聞いた、城塞都市・ローテンブルクにも劣らない、倉敷の街のイメージに近いのではないか」と思い、總一郎の理想をかなえるべく、その後の建築に活かしていったわけです。
──浦辺鎮太郎が手掛けた建築物の特徴について教えてください。
西村:浦辺建築に共通する特徴は「新・旧の調和」です。鎮太郎の言う「新・旧の調和」とは、古い街並に新しい建築物を建てる場合「新しい建築物そのものの中に、古いものの良さが含まれているべき」ということです。
日本の街の建築物は西欧と異なり、石ではなく木で造られていました。近年は多くが新建材で造られていますが、これも木と共通する特徴として“軽さ”があります。このような軽い素材の建築物でできた街に、コンクリートの建築物が入ると、どうしても軽い方が負けてしまうのです。
「古い建築物を打ち負かすことなく、新しい建物の中にも、間仕切りの可変性や軒の深さ、室内に生まれる陰影、細かな特徴や寸法、形などで、古くから伝わる良い部分を内在させること」を、鎮太郎は大切にしてきました。
──「新・旧の調和」という特徴は、いつ頃の建築物からあるのでしょうか?
西村:どの時代も変わらない特徴が「新・旧の調和」ですが、作風は時代と共に変遷しています。中でも転機となったのは、1974年に完成した「倉敷アイビースクエア」です。
それまで總一郎とともに追求してきたのは、黒・白のストイックなイメージでした。これは、世界の建築物の潮流となっていたモダニズムを踏まえつつ、日本の風土、中でも倉敷の街並みに調和する建築を目指していたからです。
しかし「倉敷アイビースクエア」は、レンガの情熱的な赤が主題となると共に、モダニズムの呪縛から解き放たれ、レンガが生活空間として成立するように造られています。アイビースクエアの建築以降は、人々の思いに寄り添うことに焦点を当て、建物が人の暮らしに同化するポストモダン的な作風となっていきました。
1980年には、鎮太郎が学生時代に憧れたデュドックのように、自分の故郷である倉敷の市庁舎を設計します。倉敷・児島・玉島の3市合併に際し、それぞれの中心に近い場所に建設されることになったのが現在の新市庁舎です。
鎮太郎は、新しい倉敷市民の思いを統合するテーマとして、日本の国造り神和「海彦山彦」の物語を取り上げ、海底の竜宮城のごとく塔をデザインしました。この市庁舎の塔は、現在も倉敷のシンボルとして親しまれています。
まとめ
歴史ある建物と近現代建築の調和が生み出した、倉敷の美しい街並み。それは、倉敷の発展を願い続けてきた大原總一郎と、その志に建築家としての夢を重ね、共に理想の街づくりを目指してきた浦辺鎮太郎が、生涯をかけて丁寧に実現してきたものでした。彼らが手掛けた建築物を巡りながら、かつて2人の若者が描いた夢に、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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