【倉敷・総社・玉野・岡山】倉敷市周辺の城跡11選 ~かつての夢が詰まった城跡をゆく~
“夏草や兵どもが夢の跡”
いつか奥の細道で松尾芭蕉が詠んだように、かつて兵(つわもの)たちが栄華を極めんと戦い抜いた跡には、もはや夏草が生い茂るばかりとなってしまい、そんな場所のことを私たちは「城跡」と呼びます。
城跡と言うと、建物が残ってないから見てもつまらない、歴史に詳しくないから良く分からない、などという意見をよく聞きますが、果たして本当につまらないのでしょうか?
そこには歴史書や文献からは読み取れない夢やロマンがあったのではないでしょうか?
「城跡」とはつまり、かつて鎬を削り合った兵たちの「夢の跡」と言っても過言ではないと、私は思います。
そんなロマン溢れる倉敷市周辺の城跡を厳選し、皆様を夢の世界へとお連れしたいと思います。
歴史的事実や解釈だけに囚われず、かつての兵どもの熱情を感じていただけると幸いです。
倉敷エリア
下津井城跡
この城は慶長のはじめ宇喜多秀家によって築かれたが、後、小早川の家臣平岡石見が居城、次いで慶長8年(1603)の池田忠継入国と共に老臣池田河内守長政(禄高三万二千石)の守るところとなり城郭に一大整備がなされ城は慶長11年に現在の遺構にみるような本格的な形態をととのえるに至る。後、池田由之、荒尾但馬、池田由成の歴代城主を経て一国一城の制令のため寛永16年(1639)廃城となる。
~ 下津井城跡遺構図より ~
アプローチは遊歩道になっていてとても気持ちがいい。鳥のさえずり、風の音を聞きながら進む。
西の丸跡から望む瀬戸内海。かつて軍事・海運の要衝であったことがうかがえる。
天守跡。わずか40年弱の短い存続のうちに、かつての城主は何を思ったか。
下津井城跡
所在地:倉敷市下津井,倉敷市下津井吹上
駐車場:あり
史跡までの距離:駐車場から片道徒歩10分程度
引用:倉敷市HP
おすすめポイント:瀬戸大橋架橋記念公園の一画として散策路などが整備されており、穏やかな瀬戸内海に抱かれつつ黄昏れるのもまた一興。
総社エリア
鬼ノ城跡
鬼ノ城は標高約400mの鬼城山に築かれた壮大で堅固な古代山城。築城の時期については諸説ありますが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため出兵した白村江(はくすきのえ)の海戦(663年)において大敗した後、唐、新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城の1つとして考えられています。鬼ノ城は当時の東アジア情勢を鋭敏に反映した遺跡と言えます。
~ 平成16年1月 総社市教育委員会 現地案内版より抜粋 ~
駐車場に到着。木曜日のAM10時頃はこんな感じ。
駐車場からすぐ、鬼城山の登り口から鬼ノ城ルートへ上がる。気分も上がる。
途中寄り道して展望デッキへ。絶景に期待が膨らむ。
復元された西門。築造の目的や時期は諸説あるものの、だからこそ想像を掻き立てられる佇まい。
版築土塁や石垣で築かれた城壁。鬼もたじろぐ存在感。
鬼ノ城跡
所在地:岡山県総社市黒尾
駐車場:あり(鬼ノ城ビジターセンター)※駐車場までは道幅が狭いので注意
駐車場から史跡までの距離:西門跡まで片道徒歩10分程度
その他:遊歩道が整備されていますが、基本的に山道のため軽登山装備推奨
引用:総社市HP
おすすめポイント:城壁と城内の見学路が整備されているので城跡の周辺をぐるりと楽しめます。
福山城址
眼下に旧山陽道を見下ろす福山(海抜300m)の山頂に福山寺があった。この福山寺の開山は不明であるが、天平年中(729~748)に有名な報恩大師の建立と伝えられる。乱世の建武2年(1335)に、備中の豪族荘常陸兼祐が、一山十二坊の大寺院だったこの寺を利用して砦を築いた。
~藤井 駿,市川 俊介,坂本 一夫,岡山文庫⑲岡山の城と城址,日本文教出版株式会社,平成元年,p.143~
安養寺に鎮座する毘沙門様の下をくぐり、お寺を抜けて参道から山道へ。
比較的歩きやすい山道。登山者も多く地元に愛される山。
福山合戦の地として石碑が残る。かつて壮絶な戦いが行われたとは思えないほど今は穏やか。
高梁川を望む素晴らしい眺め。このためだけに来る価値有り。
福山城址
所在地:岡山県総社市西郡
駐車場:あり(安養寺・清音ふるさとふれあい広場)
駐車場から史跡までの距離:1.安養寺駐車場から片道徒歩40分程度
2.清音ふるさとふれあい広場片道徒歩40分程度
その他:山道のため、軽登山装備推奨
引用:総社市HP
おすすめポイント:色んな登山道があるので何度も楽しめます。安養寺参拝と併せて行くのも◎。
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幸山城址
幸山城は別名を甲山城または高山城ともいう。福山の北登山道の中腹から別れた山塊(標高一六二m)に立地している。頂上からの展望は、東西ともに旧山陽道を一望におさめる要害である。鎌倉期の後半頃庄資房によって築城されたといわれる。その後、応永年間に石川氏の居城となった。細川氏の被官であり、また、吉備津神社の社務代である石川氏は備中南部での有力な武将であった。永禄十年(一五六七)の明禅寺合戦で石川久智は戦死した。その子久式の時、毛利氏と松山城主三村元親との戦乱にあたり、久式は義兄の元親を救援するため松山に出陣したが利あらず逃れて幸山城下に帰り自刀した。時に天正三年(一五七五)であった。かくして、毛利氏の領国支配のもとで清水宗治等が一時居城し、廃城となった。
この城の縄張りは、東の曲輪と西の曲輪とに別れている。福山の北西の中腹から大きな堀切を下りて急峻な斜面を登ると巨石がある。その巨石の所から東の曲輪の平担部が開けている。三ヶ月形の地形で南側が約四十m、東側が約五十m、北側は次第に傾斜して西曲輪との間の大きな堀切に続いている。南側と東側には土塁状の高まりがあり、場所によっては高さ二mもある所がある。西の曲輪との間の堀切は巾三十m深さ四mの大きなものである。西の曲輪は東西四十m×南北三十mの不整形な楕円状である。巨石が数個露呈している。南の端に低い土塁遺構が残っている。
~ 幸山城跡山頂案内板より ~
清音ふるさとふれあい広場の駐車場からアプローチ。
ワイルドな山道を往く。小鳥のさえずりが心地よい。
夢の跡へと続く道。
辿り着いた瞬間込み上げる幸福感。
幸山城址
駐車場:あり(安養寺・清音ふるさとふれあい広場)
駐車場から史跡までの距離:1.安養寺駐車場から片道徒歩60分程度
2.清音ふるさとふれあい広場から片道徒歩20分程度
その他:山道のため、軽登山装備推奨
引用:総社市HP
おすすめポイント:福山城址と併せて訪れると「幸福」の城コンプリート。
荒平山上跡
荒平山城は永享年間(一四二九~一四四〇)に地元の豪族、川西氏によって築城されたといわれる。平時の居館は山裾にあり、戦時の山城と対になっていた。城は尾根上にあり、全長は一五〇メートルにおよぶ。各々の壇には石を使わず土盛のみで整形しており、西の「尼子谷」に井戸がある。天正年間(一五七三~一五八五)の備中兵乱期には川西市が三村氏に味方したため、天正三年(一五七五)に毛利方の小早川隆景に攻められた。城兵はよく奮戦したが、城主川西之秀は城兵の助命を条件に降伏、開城し、讃岐へ落ちのびた。これ以降、廃城となったと思われる。
~ 山頂:荒平山城由緒より ~
駐車場は2~3台止められます。鳥居をくぐっていざ。
荒ぶる山を、平らかな心でただひたぶるに登る。
旗印を目前に最後の難所。
本丸跡には東屋。小早川に敗れた川西はここで何を思ったか。
荒平山上跡
所在地:岡山県総社市秦2785番27
駐車場:あり
史跡までの距離:駐車場から片道徒歩30分程度
その他:山道のため軽登山用装備推奨
※道幅狭く、急勾配の箇所ありのため要注意。
引用:秦歴史遺産保存協議会HP
おすすめポイント:途中にある石畳神社御神体もぜひお参り下さい。
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玉野エリア
常山城跡
「児島富士」と呼ばれるこの常山(標高三〇七m)の山頂一帯に、「常山城跡」はあります。城郭は山頂の本丸を中心に合計十四の曲輪で構成される、「連郭式山城」です。
築城の時期は戦国時代の初めと推定され、上野市・戸川氏・伊岐氏等の城主が知られています。女軍の戦いは一五七五(天正三)年のことで、この戦いで当時の城主上野氏は毛利氏によって滅ぼされました。その後、常山城は毛利氏の支配下に置かれましたが、毛利氏の築城技術と言われる竪堀や堀切の遺構は発見されていません。恐らく毛利氏以後城主となった宇喜多氏家老の戸川氏の手により、現存する常山城が整備されたと思われます。
常山城は児島半島が島であった時期には、備前本土との海峡を抑える軍事上の重要な拠点でしたが、やがて瀬戸内海の航路が重視されるようになり、一六〇三(慶長八)年に廃城となりました。城は解体され、廃材の一部は新たな監視の拠点となった下津井城の修理に利用されたと伝えられています。
~ 常山城跡案内板より ~
山頂付近までは車で行けますが、不安になるくらい狭いのでゴールド免許必須。
女軍の墓碑と供養塔。毎年8月には供養祭が行われます。厳かな気持ちでお邪魔致します。
夏草が生い茂る山頂には城主の碑。
瀬戸内の多島美を望む。乱世の世で束の間心を癒してくれたに違いない。
所在地:岡山県玉野市用吉
駐車場:あり
史跡までの距離:駐車場から片道徒歩10分程度
その他:駐車場までの車道(山道)が狭いため、要注意。
引用:岡山県HP
おすすめポイント:「児島富士」とも呼ばれる常山城の眺めは最高です。
八浜城址(両児山城跡)
全長は350m、麓からの比高は60mをそれぞれ測ります。城は北郭と南郭の2つに分かれます。主郭はその規模から見て現在、八浜八幡宮の境内となっている北郭にあったと考えます。この八浜八幡宮には応永34(1427)年銘の棟札(玉野市指定文化財)が伝わっており、戦いの当時、すでに存在していたと思われます。城はこうした宗教施設を再利用したものだったのです。主郭の東には畝状空堀群を、南には堀切を配して遮断線を築きます。主郭の北東にも数面の曲輪が続きます。
一方、南郭には、その頂上に土塁を外周に巡らす小曲輪があります。この曲輪はその位置から見て戦闘の際の指揮所であったと考えます。そして、小曲輪の南には全長140m、幅5m、深さ1.5~0.5mを測る横堀が掘削されています。そのさらに南側には畝状空堀群、西には堀切、東には土塁と竪堀が配されており、やや過剰防衛にも見えます。これら遮断線は「八浜の戦い」に敗れた宇喜多方が毛利方の攻撃を防ぐだけでなく、示威をも目的として築かれた「防衛ライン」であったのです。
~岡山の戦国争乱と城 第1巻「八浜の戦いと城」,岡山県古代吉備文化財センター,令和6年2月,p.7~
公園の駐車場に車を停め、主郭があったであろう北郭の八浜八幡宮境内へ。
北郭の八浜八幡宮。末広がりが並んで縁起が良い。
主郭からは児島湖が一望できる。
南郭へは八幡宮の反対側にあるこちらの鳥居横から。
南郭の横堀跡もお見事。
南郭の小曲輪(しょうくるわ)。“八浜七本槍”の猛々しい声が聞こえてくる。
八浜城址
所在地:岡山県玉野市八浜町八浜1062
駐車場:あり
史跡までの距離:駐車場から片道徒歩5分程度
おすすめポイント:とても静かで気持ちの良い場所。周辺の神社や公園と併せてのんびり巡ってみては?
井原エリア
高越城址
高越城は、鎌倉時代末、蒙古襲来に備えて幕末が宇都宮貞綱に命じて作らせたと伝わっています。戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が荏原庄を治め、この高越城を居城にしていました。伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、この備中伊勢氏出身で、永享4年(1432)父伊勢盛定の子としてこの地に生まれました。新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺で学んだといわれています。その後、京都に上り幕府に仕え、応仁の乱の後、妹(一説には姉)の嫁ぎ先の駿河国(現在の静岡県)の守護今川家に身を寄せました。新九郎は、この今川家の家督争いを治め、駿河国の興国寺城の城主となりました。その後、伊豆国(現在の伊豆半島)、相模国(現在の神奈川県)を治め、北条5代100年にわたる関東支配の基礎をつくり、戦国大名の魁となりました。
現在も高越城は、山陽道、小田川を眼下に、本丸を含めて5段の郭で構成されており、当時の状況をよくとどめています。
~ 高越城址公園総合案内より ~
駐車場からほど近く、立派な冠門(かぶきもん)がお出迎え。
一の郭がある早雲広場。綺麗に整備されている。
北条早雲になったつもりで高越城址周辺に睨みを利かせてみる。
北条五代もポップに睨みを利かす。
高越城址
岡山エリア
庭瀬城跡
室町時代の末ごろ(約400年前)備中松山の三村元親は備前の固めとしてこの地に築城した。付近の地名から芝揚城とも呼ばれた。一帯は泥沼地でひじょうな難工事であった。その後宇喜多の重臣戸川肥後守達安がはいり(1602)古城を拡げ城下町をととのえた。
元録12年(1699)板倉氏の居城となり明治を迎えた。自然石の石垣をめぐらした堀もよく残り、沼城の典型を示している。寛政5年(1793)板倉勝喜は場内に清山神社を建て板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭り歴代の遺品を収蔵した。(遺品は現在、吉備公民館に収蔵)
~ 庭瀬城跡案内版より ~
城跡の面影を残しつつ城内には神社が。
こじんまりと、しかし確かな存在感。
池にあるのは”大賀ハス(二千年ハス)“。悠久の時を越え今も可憐に咲き誇る。
戦の火は消えども、兵どもの魂の火は未だ消えず。我々の心の不浄を焼き払ってくれる。
庭瀬城跡
撫川城跡
撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」です。城の平面形状は、東西七十七メートル、南北五十七メートルの長方形を示し、幅十五メートルの濠がぐるりとめぐっています。西半に高さ四メートル強の高石垣(野面積み)と東半には土塁が現存しています。また北西隅には、櫓台と思われる石垣の張り出しが見られます。
この城は永禄二(一五五九)年に備中成羽城主三村元親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。備中高松の役(天正十〔一五八二〕年)には毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、当時の城主井上有景と秀吉軍との間で激戦が交わされました。その後は宇喜多の支配下になり廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領するところとなりました。
戸川氏は安風(四代目)で断絶しますが、その弟達富が撫川領分を継ぎ「庭瀬城」の本丸・二の丸に知行所を設けました。撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けられていますが、もともとは一体の城だったのです。
なお、入口に現存する門は、撫川知行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝えられています。
昭和三十(一九五七)年五月、県の史跡に指定されました。
~ 撫川城跡案内板より ~
今は地元住民の憩いの場として活躍中。
今も残る水濠と石垣。個人的にはこの角度が一番。
かつて鬨の声がこだました城内。今は童の楽し気な笑い声で満たされる。
夏草生い茂る井戸。
撫川城跡
備中高松城址
高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10(1582)年の中国役の主戦場となった城跡として有名である。
城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築成された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。縄張りは、方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。
本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。
~ 高松城跡案内板より ~
真っ赤な旗でお出迎え。
宗治蓮。蓮の花が綺麗であればあるほど、宗治の無念を思い悔しさが込み上げる。
本丸跡には緑がたくさん。
敵将羽柴秀吉をもってして”武士の鑑”と言わしめ、死してなお後世に語り継がれる英傑となった。
水攻めの壮絶さを物語る築堤跡高さ表示版。
備中高松城址

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